Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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「安全な生活環境とSTS(科学技術と社会)」・「個の可能性研究会」共催
ワークショップ2005「グローバル社会と科学―個の可能性」発言記録

永澤:永澤です。言葉についてだけなんですけれども、まずは、「分身たちの共同体」という、これは引用符がついていて、さっき鷲田清一さんに言及されたということで、厳密には私もフォローしていないのですが、その特徴が「他者の不在」の不在ということなんですが、そこまで鷲田さんが言っているのか、それともこの部分に関して、ディフィニションとしては、萩原さんのオリジナルなのかということと、それとの関係で、「他者の不在」の不在というのをあらためて説明して欲しいということです。それから、鷲田さん自身がジジェクとかラカンについて言及しているのかどうかを確認したいんですけれども。
永澤:はい。
永澤:多分、こういうことだと思うんですけれども。
永澤:意識化という陳腐な言葉を使えば、自明性というのは無意識でやっていけるわけですよね。つまり、いちいち問わなくても、大体みんなこういうことを考えているだろうと、世間は。ただし、それ分からなくなってくると、多少意識化されてくるというか気になってくる、それが不安という言葉になってくるのだと思います。つまり、何らかのことについて、あるタレントについてでもいいですし、選挙のことについてでもいいですし、あるいはワイドショーの話題でもいいんだけど、こういったことについて、世間一般の人が、どのくらいのことをコンセンサスというか、話しているときにこのくらいのことは通じるかどうか、全く問わなくてもいいという「他者の不在」ではなくて、もしかしたらこのくらいは知っているかもしれないし、このくらいは知らないかもしれない、じゃあ私はどうなのかって、そういった、そこまで意識化されない、微妙なところで気になって、結局確信を持てなくなっているという事態が、今進んでいると思うんですけれども、それを揺らぎと言っているんですよね。しかし、今のところそういった事態を意識化というタームでしか、あるいは無意識というタームと、意識化というタームでしか表現できないんですよ。ですから、使わざるを得ないんですけれど、その意識化のターニングポイントというか、分岐点というか、そのきっかけというか、つまり揺らぎのプロセスそのものというレベルを先の議論は既に前提としている議論なんですけれど、その揺らぎの生成というプロセス自体は、一体どうなっているのかということが全然分からないわけです。私の現在の関心としては、これを考えてみたいというところはあるんですが、まあそれはそれとして、最初に言ったようなことでいいんですか。他者の不在の不在というのは。
永澤:あとひとつだけ、短く。攻撃性に転化するということですが、これも議論の前提になっているのですが、そこにおいて村上先生がおっしゃったような専門化支配とか、そういったリジッドな枠組みとか、ある程度誘導的なものとか、そういった契機との関連でも考えていますか。
永澤:それでは、発表させていただきます。永澤です。20分という短い時間なので、本当に未消化なものになってしまうと思うんですけれど、その点はできるだけディスカッションの場で補足していきたいと思います。本日は村上陽一郎先生がいらっしゃって本当に感激しているんですけれど、私自身、小学校6年生のときに、科学技術について憂えるというような、何か変な文を書いたりして、それから大学に入ったときに、科学論から出発してるんです。先ほど村上先生に、僭越にも言ってしまったんですけれども、村上先生の「科学と日常性の文脈」といった著作です。それから、例によってポパーとか村上先生が翻訳したファイアアーベントとか、そんな感じで始めているので、私の哲学的な関心というのもそういうテクノロジーの問題と、自己というか自己形成との絡みでずっと続いていたということを、最初に申し上げておきたいと思います。本当に未消化になってしまうんですけれども、レジュメをさっと読むような感じでご了承いただきたいと思います。まずテーマなんですが、「この私は他人より、生存に値するか」という価値軸に沿って、我々一人ひとりが際限なく階層序列化されていく社会的過程、これを仮定するわけです。「汎優生主義」(パン・ユージェニクスPan-eugenics)と呼んでいます。これは、社会的過程であると同時に、<我々自身の無意識>、そういうものとしても仮定されているわけです。それが一体どういったものなのかということは、実際にこれから、探求の方法を模索して捉えていくしかないものなので、殆どが私の仮想的な意見ということになってしまうのかもしれません。ただ、一つの試験的な事例として、実際に分析を行った試みというものもあります。それは後で触れていきたいと思います。それで、この汎優生主義というものを一体どういった形で言語化して記述するかということに関して、先ほどの村上先生と萩原先生の科学者、科学・技術の話とも関わるんですけれど、配布しましたレジュメに書いているようなことがあります。
例えば遺伝子の改変という技術的過程。これが、<我々自身の無意識>を介して社会的に継承されていくという可能性があると。例えば個々人が選択するに際して、先ほどもそういったことが示唆されていましたけど、技術的な力による子どもの生産という現実、これが一旦成立したと仮定すると、それは間違いなく、すごい強制力として作用すると思われます。それでですね、既に皆さんに郵送して配布した3つの質問というのがありまして、それをですね、それに対して自由に筆記していただくという形で、資料を集めて、実際集めて分析したものがあるんですけど、その結果からレジュメの記述を導き出しているので、実は私が勝手に書いたものでは全く無いんですよ。実は全て、ほとんどがケアマネジャーの方々なんですけれども、回答者の方々が書いたものを、非常に精緻に分析していった結果、こういったことが実際に浮かび上がってきたということなんですね。つまりその結果としては、より背を高くするといった、そういった人の属性をですね、序列化したり、それをより良くする様な介入は否定する方が多いんですが、そうじゃない場合、非常な難病とか、そういったものの場合はOKという傾向、こういった分岐が見られたりするんですね。ただそういったものに対する見方としては、人のそういった、知能とか、色々な見方がありますけど、そういった属性を序列化するという価値観ですね。それとですね、そういった属性を持った人の生存自体を、より価値があるとか、無いとか、そういったふうに捉える価値観、これら両者の価値観は同じだろうと。そういった見方ができるんではないかと思うんですよね。つまり、人の属性を序列化するということ自体が、もう既にそういった属性を序列化するということに応じた、そのような属性を持った人の生存自体を序列化していることになるのではないかと。それで、我々はトータルとしては、遺伝的なレベルでも技術的に介入できないので、何らかの属性に対する介入ということになると思うんですよね。治療がかなり困難であるとか不可能な、そういった遺伝的な欠損を何とか除去するとか修正するとか。そういった介入自体を我々が考えたとたんに、それを何らかの形で考えるということは、何らかの価値付けを行うということなんで、そのこと自体に潜む、こういった生存自体の序列化という価値観の介入が、無意識レベルであると思うんですよ。つまり、これはほとんど思考不可能とまでは言わないですけれども、テーマ化して思考すること自体がもうすごくリスキーというか、難しいことになるんだと思うんですよね。ですから実際には、こういったことが自然な形で非常に無意識な、つまり表立って言表しないレベルで、Pan-eugenics的な社会的過程が進行していくということは、むしろ予想され得ることだと思うんですね。それで、とりわけそういった価値観が共有されている科学的な共同体とか、そういった人達のですね、動きというものがそのまま、それ以外のレベルへとスライドしていった場合には、実際にこういった形での汎優生主義的な社会的過程というのは、実現してしまうのではないかというふうに思います。また、そうした強制力が偏在する世界のイメージというのも、これは私が勝手に考えているというわけではなく、様々な社会的な兆候としてもありますし、また実際に、質問表に対して筆記していただいた記述からも既に浮かび上がっていたりしたものなんですが、それは耐え難く退屈な世界なわけです。記述においては、「なんだかつまらない感じがする」という言葉でだったんですけれど。もしそういった社会的過程が実現してしまった場合ですが。私はそれを言い換えて、無意識における「もはや、あるいはつねにすでに、すべては超微細レベルで決定されている」という、そういった言表が、無意識のレベルで際限なく反復されているような世界としてイメージしています。そのような世界においては、個々人がそういった無意識レベルに直面するという事態はあらかじめ排除されているのではないか、という問題があります。現状では、本当に遺伝子診断によって受精卵を選別するという行為をしただけでも、例えばもう産婦人科医として排除されるとか、学会から排除される、そういった状況にはなっています。ただし、もし、そういった状況的な禁止というものに関して、さっき萩原さんがおっしゃったような問題もありますよね。禁止という問題が、抑止力になるのか、むしろ実際には欲望を喚起するのかという問題があります。仮定の話になりますが、もし我々がそういった遺伝子検査によって、実際どうしますかというように問われ、かつそういった選択をなし得る立場に立たされたとして、またさらにそういった選択をなしたとしても、その選択の時点から際限なく続く時間の中での、ヒトという種レベルの変容という事態に対する責任、あるいは応答不可能性というものを負うことはできないという問題があります。これは先ほどの、遺伝子組み換え作物において、エコロジカルなレベルで、いったんフィールドに出てしまったときの、そういった生態系全体の変異というものに対して、予測もできなければ、厳密に一個人が責任をとるということが非常に不可能に近いということが、まさに我々のヒトという種レベルでも起きてしまうということになると思うんですよ。それで、先ほどの萩原先生のお話と、さらに村上先生のお話と関連させますと、つまり、責任、あるいは応答可能性というのは他者を前提としている、あるいは、応答可能性というパフォーマティブな行為自体が、他者を創出させるというように考えますと、このレベルでは、およそそういった応答可能性という意味での責任は原理的に排除されるだろうと。つまり、不可能なんですね。ですからそれは、むしろ原理的な無責任、あるいは原理的な応答不可能性という事態です。そういった事態が、実際に現出してしまうだろうということです。ですから、我々が選択するということが不可能になってくるというレベルと、だからこそこの意志的な選択というのが重要になってくるという問題があります。ただ、今後その意志的な選択ということを意識化することがどれだけできるかという問題にもなってくるので、我々が無意識のレベルをどう意識化するかとか、その揺らぎというものをどのように意識化するかというそのプロセスが照準されるわけです、先ほども言いましたように。そこのところに照準を合わせた、研究というか探究プログラムというものが、現在人文社会科学において、まったく無いとは言いませんけれど、あまり無いわけなんですよ、実を言うと。ですから今後はそういったことをですね、やはりやっていく必要があるのではないかというふうに思います。それからレジュメの2番目以降は、あまり時間がないんですが、これは見れば分かると思うんですけれども、多少補足します。ちょっとお断りしておきたいのは、私はラッダイト主義という言葉は好きじゃないし、まあ、ある意味、嫌なんですけれども、つまり少なくとも私はテクノロジーを単純に批判したり、否定したり排除したりという立場ではないんですよね。言うまでもありませんが、あらゆる意味において、テクノロジーの非常なポテンシャルというか、ポジティブな点というのは認めていますし、そういったものは、できるだけ活用していく必要があるとは思いますし、また、村上先生が『安全と安心の科学』でおっしゃってるように、DNAチップの応用可能性というポテンシャルに関しても、別にそういうことをやっていくこと自体を批判してるわけではないんですね。ただ、要するに、非常に閉じた科学者共同体とか、そういったフレームがそのままより広範な社会的レベルにスライドしていくという可能性が常にあるわけです。その場合、我々の、先ほどの意志的な選択とか、評価といった、先ほど村上先生もおっしゃっていた、そういったモメントが介入しないで、そういった事態が生じてしまったときにどうなるのかというような、そういった批判的観点を提示しているということなんですね。それで、結局個の問題になってしまうというところもあるんですけれども、それはまさに個の再帰性が問われるレベルが、とてつもないものになっているということです。今はまだ仮想的な事態に過ぎないんですが、我々は、マイクロチップに定着されて可視的なものとなった自分の遺伝子のセット、これは個々人で差異のある、SNP(スニップ)(1塩基変異多型)と呼ばれるレベルですが、それを基本的には好きなように改変できるチャンスというのは、たとえ現状では仮想的なものであっても、原理的には可能な事態として直面することになるわけです。そういったときに、先ほども言われていた万能感とか、そういったものが噴出してくる。そういった事態にどう対処していくのか。その万能感というのも、単純なナイーブなものではなくて、すでに階層序列的な眼差しによって浸透されていて、傷ついているような「トラウマ的な万能感」だと思うんですけれども、そういった事態に直面した場合にどうなるのかという問題があると思います。それで、そういった個人が、私が見るところの汎優生主義的な場に立たされて、<我々自身の無意識>に貫かれて最後に自滅していくという世界がですね、フィクション、漫画の世界ではあっても、いや現実には我々の身の回りにもう既に進行してはいるんですけれど、先取り的に、古谷実という作家の、『ヒミズ』という作品に描かれていたというふうに私は考えていたので、レジュメの後半ではそういうふうに書いているわけです。これは、先ほどの萩原先生の、再帰化した「分身たちの共同体」の話とかなり密接にリンクするということが言えると思います。つまり、揺らぎだした「分身たちの共同体」というテーマですが、どのレベルまで再帰的に意識化し得ているかどうかは別として、非常に揺らぎだした、不安が生じている「分身たちの共同体」、あるいは「他者の不在」の不在というレベルですね。それに関して色々な考えるべき素材があるんですけれど、例えば自爆テロということに関してどういうふうにリンクするかということについてお話ししてみます。レジュメの該当箇所に引用されているのは、実際にこの作品の主人公の少年の言葉なんですね。「たまたまクズのオスとメスの間に生まれただけだ」、と。「だがオレはクズじゃない」、と。「オレの未来は誰にも変えられない 見てろよ オレは必ず立派な大人になる」ということを言っているわけなんですが、ただですね、この少年の父親はですね、もう、現在の基準ではいわゆる「反社会性人格障害」みたいに診断されるような人で、主人公は、もうこの時点で、コンクリートブロックでこの父親を殺しちゃってるんです。それで、実際に彼がここで言っている立派な大人というレベルは、完全に雲散霧消しているわけなんですよ。ですから、何かをモデルにするとか、何かに憧れるとかっていう、他者への欲望あるいは転移のレベルですが、こういったものは彼にとっては、手がかりとしては、もう全く無いんです。彼自身、自分の欲望というものも、もう失っているんですよね。ですからそれで自滅に向かうわけです。それで、少年にとっての他者というのは全くの空虚としての「みんな」に置き換えられて、この「みんな」へとオレの空虚さが投影されると。このオレというのは、実は「みんな」と同じです。それが他者一般になり、攻撃対象になってしまうわけです。つまり、自滅するか、他者全体を消してしまうかということで、それを両方一緒に、精神分析的な意味で一挙に「行動化」してしまうときに、自爆テロということになるんですけれど、これは、非常に強い自殺念慮というか自殺願望のある人が、同時にしばしば感じる、というか感じたということで言われていることとして、要するに「世の中のやつ全員皆殺したい」というような、欲望を表出することがあるんですね。ですが、実際、それを実行する人はほとんどいないですよね。ですからそういう人というのは、何回も自殺を繰り返して、結局死んでしまったりするわけなんですね。そういうことを、あとで語っている人も、ある意味幸運にも実際に自殺しようとしたけれど生き残った人が、そのように事後的に語っているわけです。例えば、あの頃の自分っていうのは、自分が死ぬぐらいなら、もちろん死ぬしかないと思っているわけですけれども、死ぬぐらいなら世の中の人間全部殺しちゃって、それから死にたい、みたいな。つまり自爆テロ的な心理というのは、上述のような行動化ということが考えられるわけなんですけれども、それを一部の事例ということで捉えていいのか、あるいはそれをどの程度、普遍的なレベルを顧慮しつつ捉えていけるのかという、非常に難しい問題が浮上してくることになるわけです。あと3分弱ということなんで、最後にレジュメの4ページを見ていただきたいと思います。実際に私がこれまで述べてきたことというのは、皆さんに郵送した3つの質問というものに対して、12、3人ぐらいの方に答えてもらったものを分析したものがベースになっているわけなんですけれども、その分析の枠組みは、そこに書いているようなことです。これを読んでいると時間がないので省略します。私としては、実際に自分がこういうふうに分析するだけでは足りないと思っていますので、またさらに考えたいと思っていますが、これは方法論に特化した話なので、ここでは省略したいと思います。時間がないので、ある意味コンシステンシーを読み取りにくいといった感じの発表になってしまいましたが、私は皆さんの議論の材料を提供したということで、先ほどの萩原先生と、それから一番最初の村上先生の非常に重要な問題提起と、少しでもリンクするポイントを提示して発表したというスタイルにしまして、その他の論点については省略させていただきました。以上です。
永澤:ポジティブに捉えられないか、もちろんそう思います。それから、ネットワーク化に可能性を見出しているということですよね。現実にそう動いているということもあって、それと一貫性の関係というのはここですぐ答えられるようなことではないと思うんですが、その両方に関係することとして、他者が他者として立ち現われるような、そういったパフォーマンスとは何なのかということで、普通、会話とかを考えますよね。で、その話すこともそうなんですが、ちょっと私今答えにくいというか考えている途中なのは、話すことにおいて、その変化の可能性が無い場合の方が多いということがありますよね、かなり。既に媒介されている部分があって。それと書くことというのは、他方で、本当にリテラシーが無いと、文字が分からない人も多いわけだし、書くことは非常に大変な作業になるわけですよね。その二つをどういうふうに関係させるのかという、非常に大きな問題になってしまうので、今ちょっと答えにくいというのはあるんですよね。ただ私がやったのは、ごく普通の人に、まあ一応専門職と言われている人たちですけれど、すでに書かれたものに対して書いてもらって、それで話しているときにはおよそ出てこなかっただろうということが、実は書き出されていて、さらにそれを私が分析したということがあったわけです。ただし、まだそれは本人に返していないので、本人にとっては何らリフレクシブな部分が無しに、それこそ無力な形で終わっているんですけれども、それをどうするのか、ちょっと悩んでいるわけですね。で、ちょっと今・・・。
永澤:はい。一貫性を、既にメタレベルの話なので、それを前提してしまうのかという話で・・・。
永澤:そうですね、その意味では、私は、一貫性のポジショニングを取っていたということになりますね。だからさっきの再帰化するということにおいて他者と出会うというか、そういったことのレベル自体は通過した上で、というかそれは目指されるものかもしれませんけれど、その意味で一貫性というふうに言っているんでしたら、私はその意味で一貫性というのは手放せないなっていう気がしますけれど。つまり、再帰化も何も無ければ、メタレベルの一貫性なんていうのは意味が無くなってしまうという意味では。
永澤:自分の問題として戻ってくるし、それは問わなきゃならないってさっきも萩原さんが言っていましたし、ただそれはプロセスの中でしかないんで、常に意識しているわけでもないんだけど、そういった流れの中に、自分を維持するようなものがあるのかもしれない。だからそれを一貫性と言うんじゃないんですか。
永澤:まあ、そうですね。
永澤:ちょっと補足したいんですけれども、先ほど嗜癖的な、アディクション的なものの危険があるっていうことを言っていましたけれども、それは私が言っている、行動化、同じことを言っていると思うんですけれども、行動としては、外から観察する限りでは、全く一貫している極みというのが、まさに嗜癖的行動だということは、皆さんご存知ですよね。つまり、一貫性というのは、実体的に捉えてしまうとか、外から観察される一貫性とかというふうに、いわば「物」的対象というか、もっとも一貫した行動とか、パーソナリティーというのは、まさに嗜癖的な<症状>なわけです。もう、どんなに外から強制力を加えても、薬物を摂取し続けるとか。それで、最も一貫した「行動」というのは、いわゆる本能のプログラムによるものですよね、生物の。非常にシンプルな事例として、例えばダニなら、かつてユクスキュルが解明したように、たかだか3つの行動パターンで一生一貫していると。で、我々が今明らかにしようとしているのは、全くそれとは違う一貫性ですよね。ですからそれは、非常に、外から見て一貫しているとも言えないし、行動しているかどうかということも言えないんですけれど、ただそれが、我々が本当に意識化できるかどうかは別として、あるレベルで、こういう陳腐な言葉しか使えないということを先ほどから言っているわけですけれども、意識化するというレベルもあるわけですよね。つまり、意志化すると言ってもいいですし、つまり、諦めないとか、他者に対する応答とかということを、先ほども言われたように諦めないっていうことを、常に意識していることは異常で、あり得ないにしても、何らかの点で、まあそういった意識化がなされるとか、それがフィクションであるかどうか分からないし、哲学的に考えればフィクション以外ではないにしても、そういった意志というレベルを、何か捉えている局面があって、そういった、こう、ぽつぽつとしたものが、何か自分自身として、再帰的に捉えられるとか、そういったレベルで言っているわけですよね。先ほどは。ですからその辺を、南部さんが、今理解していらっしゃるかどうかという点も確認したいと思ったので、今ちょっと補足したんですけれども。
永澤:いや、質問じゃなくて、補足です。
永澤:それで記述ということの分かりやすいレベルでの、内容はともかくとして、一応はそうですね。
永澤:諦めるか諦めないのかは、自由だと思います、個人の。
永澤:ただそれが、今議論しているのが、どういう意味なのかということがあると思うんですよ。
永澤:一貫した記述というものは、例えば、具体的に考える必要があると思うんですよ、決して状況論的とかではなく。例えば掲示板の記述とかですね。掲示板の、ネット上のやり取りとかで、一貫しているってことはどういうことなのかとか。そうでなければ、一体どういうことが起きるのかってことは、各自考えられると思うんですね。で、その場合私は一貫性は必要だと思います。メールのやり取りにしてもそうです。
永澤:それで、その場で別に、自由なんですよ。
永澤:いや、私の立場はまた別で、一貫性を支持する側だと思うんですけれども。
永澤:ちょっと時間がないのですけれど。萩原先生や村上先生がおっしゃっていたのは、多分、他のことでも。私の言葉で言うとリスポンシビリティというか、応答するという意志ですよね。それをあえて選択するという、他者に対してリスポンスすることを選択するというプロセスです。ですから、倫理がないというのは、他者が析出されている経験がまず、なかったということですよね。そうだと思うのです。他者というのが、個としての他者が析出されているという形ではなくて、個としての他者の呼びかけに応えるという意味でのリスポンシビリティ、責任という形であれば、今議論が収束されるような倫理というか、その基盤にあると思うのですけれども。それが日本にはなかったですよね、確かに。いろいろな学会においても世間という場においても、なかったということだと思うのです。その代わりにあったかもしれないのは、いわゆる、アルチュセールが批判した、あるいはジジュクがラカンを敷衍して言っている、大文字の他者というものがあって、天下り的に呼びかけられているものに対する、つまりイデオロギー的な機能としての他者の呼びかけに対する応答という形で絡め取られていくと。そこの区別としてやっていくというのは、まず一つあると思うし、これまで日本にはなかったと思うんですよ。現在までの日本というのは、選択ということが全然なかったと断言してもいいと思います。大越先生が言うように。全くなかったと思うので、その辺については、おそらく宮永先生も一致している意見だと思うのです。これから、そうしていくという話になっているわけですよね。その点で、自由な選択ということに先ほどの、ジジュクの言葉を引いて、「選択の自由はあるが、正しい選択をしなさい」という新たな声というのが聞こえてきて、これに迫られていて、これに絡め取られる、しかも無意識のうちにやっているか、あるいは意識化したときに常に、選択の自由はあるが正しい選択をしなさいという声が聞こえてきて、そういった、正しい選択をするという形でしか意識化できない、という様相が現れてきたのが、先ほどの萩原さんがいった、再帰化された他者の不在、つまり、他者の不在の不在という状況です。それに関連しますが、先ほどの汎優生主義という社会的過程の直前の段階、ステージというものがありまして、「新優生主義 Neo-eugenics」ということですね。それはWHOが公式見解として言っている。つまり、これはユージェニクスではない。その理由として、我々個人、またはカップルの自由な選択を保障しているんだというこういう言い方ですよね。ですから、みなさん、カップルでも、個人でも自由に選択するということは保障されているし、むしろ自由に選択して欲しいという宣伝があって、その選択というのが、要するに遺伝子診断を受けるかどうか、遺伝子検査を受けるかどうか、受けた結果、受精卵の選別というものをするかどうか、という選択です。誰も強制していないという言い方なのです。それは、私から見ても、先どの言い方からいっても、自由な選択はあるのだけれど、その中で正しい選択肢を選択するという事態、その選択肢というのは、すでにデータベース的に提示されているものとして、その中でしか選べないという状況がきているということを言っているわけです。それがもし、全面化してしまったときに、私がさっき言ったのは、新優生主義というネオユージェニクスの段階をベースとして、汎優生主義というものになっていくと言いたいわけですね。ですから、この今の私の話で、萩原先生の話とか、村上先生の話とかと、全部つながってくると思うのですけれど。要するに、選択というのは、全くこれからの話だから、今は何一つ選択できない、選択など存在しないというまさに、大越先生がおっしゃっていることもその通りだと思われます。

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